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◇◆ コラム ◆◇

049: 目覚めるまで、人生を生きていないってどいうこと?

世界中の覚者たちが、異口同音に話すことに、
「目覚めるまで、人は本当には人生を生きてはいない」
というものがあります。


なかなか衝撃的な言葉ですので、これまでわたしも、
あまりこの話題をしてはきませんでした。


が、「本当に書きたいと思うことを、書こう」って、
強く思いがわいてくるようになってまいりましたので、
今回は、この話題について書かせていただこうと思います。


「目覚めるまで、人は実際には人生を生きていない」
これは、いったいどういうことなのでしょう?


実はわたし自身も、この言葉はずいぶん前から知ってはいましたが、
実際には、なかなか理解できずにいました。


「悟る」、「目覚める」とは、書いて字のごとく、
「起こっていることに気づいている」、
(同時に、気づきが気づきに気づいている)

「目が覚めている」ということです。

ということは、悟るまでは、
「本当は、なにが起こっているか気づいていない」、

「眠った状態(無意識)」と言えますよね。


では、なにに気づいていないのでしょう?

わたしたちは、目覚めるまで、自分の身体が自分だと思い込んでいます。


「この身体はわたしのもの」であり、
「この身体がわたし」だと思い込んでいるんですね。


「あなたは、どこにいますか?」って聞かれたら、
即座に、(ほぼ自動的に)自分の頭や身体を指差しますよね?

それくらい、身体が自分だという思い込みが、
当たり前になりすぎていて、

「あれ?本当の自分って、ホントは何処にいるんだろう?」
なんて、振り返ってみることも、普段はないわけです。


そして、もうひとつは、
【この考えている、思考しているわたし】、

【いろんなことを考える思考を】を、
わたしだと思い込んでいるんですね。


かの大哲学者デカルトの、「我思う、ゆえに我あり」が、
人類最大の勘違いであり、最大の苦しみの原点だと、
多くの覚者たちが、話していますが、


この「考えている誰かがいる」、「それがわたしだ」という、
錯覚が、あまりに強烈過ぎて、わたしたちのほとんど誰も、

それが実際には存在しない錯覚だとは、
気づかないことさえ、気づかずにきたんですね。

では、【思考がわたし】だと、錯覚していると、
(実際には、錯覚している「わたし」や「あなた」も存在しないのですが)
どんな弊害、苦しみが起こってくるのでしょう?


わたしたちは、五感を通して、様々な刺激を外から受けています。
(実際には、内も外も存在しないのですが)

目で何かを見、耳で何かを聴き(聞き)、
舌で味を味わい、鼻で匂いを嗅ぎ、
肌や体内の感覚で、触感や感覚を感じます。

さて、わたしちには、記憶というものがあります。
(実際にはそれは、どこかに存在しているわけではないのですが)


そして、わたしたちは、記憶を通して世界を見ています。


つまり、記憶=過去を通して、世界を見ています。


(※実際には、わたし(たち)が見ている「世界」は、
記憶の投影なのですが、今回はややこしくなるので、その件は割愛します)


よく、「人は、その人の色眼鏡を通して、世界を見ている」
と言いますが、この色眼鏡とは、その人の記憶のことです。

たとえば、(覚えていてもいなくても)昔どこかで、
人に何かされたり、言われたりしたことで、
傷ついたり、ショックを受けたりしたことがあったとします。

すると、表面意識では気づいていないとしても、
「わたしは、馬鹿にされている」というような
記憶が刻印されます。

これが「観念」と呼ばれるものです。

すると、なにを聞いても、なにも観ても、
基本「わたしは、馬鹿にされている」という視点からしか、
物事がとらえられなくなります。

そうなると、褒められたり、認められたり、
また、人が自分の思い通りに言うことをきいたりすると、
(つまり、優越感を感じると)
【心地いい感覚を、生理反応として体験】しますが、
      ↑
※これ超重要ポイントです


ところが逆に、間違いを指摘されたり、
自分の思い通りにならない態度をとられたりすると、
【不快な感覚という生理反応を体験】します。


なぜこんなことが起こってくるかというと、
五感により入ってきた刺激に、過去の記憶(観念)が、

化学反応を起こして、「快」、「不快」という、
【自動的な反応】を引き起こすためです。


そう、これらはすべて、自動的な反応なんですね。


そして、心地いい生理反応が起こってきたときには喜びますが、
不快と感じる生理反応が起こってくると、

過去のいろんな記憶が、(化学反応的に自動的に)呼び出されて、
「馬鹿にされた」とか、「許しちゃいけない」とか、
「わからせてやらなければ」とか、
「どうせ、わたしなんて」などの、

【記憶(観念)なりの反応が、自動的に起こってくる】んですね。


これらはすべて、無意識のうちに、
自動的な反応として起こってきます。

つまり、自分の意思で生きているようで、
実は、五感からの刺激に左右される、

【外からの刺激次第の人生】を生きているってことに、
なるわけです。

が、それらはすべて、無意識のうちに起こる自動反応ですから、
そんな反応が起こっていて、


そしてそんな反応に踊らされているなんて、
気づかないことさえ、気づかないんですね。

でも、ある時人は、このカラクリを、知識として知るときがきます。


わたしもそうでした。


そこでわたしは、「観念によって人生が左右されているなら、
観念を解消したり、書き換えてしまえばいいんだ!」って気づいて、


それらを解消したり、書き換えたりをしはじめました。


これは、ある時点までは、大変有効に思われました。


そして、ある時点までは、本当に役立ってくれます。


そのある時点って、なにかというと、
「悟りたい」「もう目覚めたい」という、
真剣な思いがわいてくるときまででした。

それはどんな形でやってくるかと言うと、
人によって様々ですが、


わたしとなづなちゃんの場合は、
「これ、いくらやってもキリがない!」って、
ハッと気づくという形でやってきました。

その時になって、
【観念を解消したら、いつか人生は変わるという「観念」】を
しばらく生きていたことに、気づいたんですね。

が、これは観念を解消するということを、
真剣にやり続けたことで、気づいた気づきでしたので、
決して無駄なことではなかったと、今は思っています。

さて、話を自動反応に戻しますね。

わたしたちは、五感を通して感じる、外部からの刺激が、
記憶(観念)と自動的な反応を起こすことで、
怒ったり、悲しんだり、喜んだりするわけですが、


これらは、まったく自動的に起こります。


つまり、目覚めるまでは、「人生は、外からの刺激次第」だし、
「記憶(観念)次第」の自動反応だということを、
気づかないことさえ、気づかないんですね。


ゆえに、人は、外の何かを変えようとするわけです。


お金がたくさん手に入ったら、

有名になれたら、

あの人が振り向いてくれたら、

あいつをギャフンと言わせたら、

恋人ができたら、

結婚できたら、

生きがいを見つけられたら、

天職に出会えたら、

などなどなど。


まさか、記憶(観念)が引き起こす、
自動的な反応に、振り回されているなんて、
気づかないことさえ、気づきませんから、

外の何かが変われば、安心できる、満足できる、
幸せになれる、満たされると、錯覚し続けるんですね。


が、これもいつか終わりがきます。


どんなに、これが続いたとしても、
「一向に、一喜一憂の繰り返しは変わらないじゃないか!」って、
いつか気づくときがやってくるからです。


目覚めるとは、これら無意識の自動反応(眠っていた状態)、
それらの生理的な化学反応が内面で起こっていることに、
気づいている状態と言えます。


そして、記憶の化学反応によって、思考が作り出す
(現実には起こっていない)ドラマに振り回され、問題やトラブルを作り出す、
「苦しみの連鎖」からの解放のはじまりでもあります。

ここではじめて、ただの自動的な反応、
外の刺激次第、観念次第だった人生から、
抜け出すことが、可能になります。

そして、古来より言われ続けていた、
「わたしの中に神がいる(実際には内も外もないし、
(個ではない)わたしそのものが神なのですが)」
ということを、体験を通して理解しはじめます。


それは、同じ人生を生きていながら、
まったく違う人生を生き始める瞬間です。


これが、(自動的な反応の人生の)【死】であり、
(目覚めた神意識の誕生)【再生】とよばれるものです。

そして、苦しみを生産し続ける一方通行の流れが、
(思考による自我の強化が終わり)
苦しみからの解放の一方通行へと流れが逆回転をはじめます。
      ↑
(これについては、サットサンのとき、詳しくお伝えしますね)


それは、恩寵という形で、ある時訪れます。


そう、それは、わたしやあなたの意思ではなく、
恩寵として訪れるんですね。


もし、目覚めへといざなう、本や覚者との出会いが起こってくるなら、
それは恩寵として訪れます。


彼らに会おうという意思や、選択が起こってきたなら、
それも恩寵として顕れてきます。


が、いつか誰もが気づくでしょう。


すべては、恩寵(真我、神と呼ばれてきたものの顕れ)でしかなく、
それ以外、なにも起こったことがなかったのだと。

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